北アルプス 槍ヶ岳を目指す 表銀座縦走~槍ヶ岳(3,180m) ●●★★❖
槍ヶ岳(3,180m)とは
槍ヶ岳(3,180m)は、北部の剣岳、立山、白馬岳に対して、南部では槍・穂と言われる北アルプスを代表する名峰である。もちろん日本百名山にも数えられ、もしあるのなら日本十名山があったとしても間違いなく名簿に載る山だと思う。富士山をなぞらえて「榛名富士」とか「吾妻富士」などと円錐形の形をした山が名付けられるように、「鹿島槍」、「涸沢槍」、「三本槍」などと槍の名前を持つ山もある。槍ヶ岳の表参道は、上高地から徳沢、横尾、槍沢を詰めて登るコースだが、その他に新穂高から槍平を経て裏側から入るコース、表銀座、裏銀座、穂高から大キレットを経るコース、そして難関な北鎌尾根を経るコースがある。槍ヶ岳への初登頂は、1823年幡隆という越中生まれの念仏僧だったとされる。その後、1878年には、日本アルプスの名づけ親であるウイリアム・ガウランドが登頂したと記されている。
スポンサーサイト 晴れのち雷雨 燕山荘キャンプ場(6:50)→蛙岩(7:15)→為右門吊岩(8:15)→切通岩(9:00)→大天井岳分岐(9:10)→大天井ヒュッテ(9:50、11:05・昼食)→赤岩岳(12:30)→ヒュッテ西岳キャンプ場(13:25) 朝食の雑煮ラーメンが当たってしまった。朝早く燕山荘を出発すると、燕岳方面に列を作っていた。今日は、北アルプス表銀座の尾根上を辿って、ヒュッテ西岳に向かう。蛙岩、為右門吊岩のピークを超え、やがて鎖のある切通岩に出る。そこには、喜作のレリーフがあった。前には、大天井岳がはばかる。その頂上を大きく右に巻いて、大天井ヒュッテに出た。ここで昼食を取ることにする。背に背負うキスリングの肩ひもが、肩に食い込む。思ったよりバテた。さあ、ここからヒュッテ西岳まで2時間半程度。途中に赤岩岳というピークを越すのだが、いくつか同じようなピークがあってわからなかった。やがて尾根の左側に廻って、一生懸命に頑張るのだが、ヒュッテ西岳は遠く感じた。だから、左側の下の方にそれを見つけた時は、飛び上がって喜ばんばかりであった。ヒュッテ西岳のキャンプ状にテントを張ると、雷が近づいてきた。午後3時頃だったと思うが、山の上昇気流で積雲が発達したためだろう。ここからは、穂高連峰と槍ヶ岳が大きく見える。槍ヶ岳の北側には、北鎌尾根が荒々しい岩肌を見せていた。 晴一時雨 ヒュッテ西岳キャンプ場(6:50)→水俣乗越(8:05)→ヒュッテ大槍(9:55)→殺生ヒュッテキャンプ場(10:10、13:00・昼食)→槍の肩(13:25、13:35)→槍ヶ岳(13:55、14:25)→槍ノ肩(15:15、15:50)→殺生ヒュッテキャンプ場(16:15) ヒュッテ西岳キャンプ場を跡にして、水俣乗越鞍部まで下る。鎖場、鉄の梯子場などがあるが、しっかり足元を固定しながら市五町に通過する。そこからは頂上に向かう登りになる。日が暖かく我々を照らしてくれる。汗を拭いて、フウフウ言いながら高度を上げると、じきにヒュッテ大槍に着く。そこから尾根を右に見送り、トラバース気味の山道を行くと、殺生ヒュッテに着く。ここで昼食を取り、その後すぐに槍ヶ岳頂上に向かった。槍の肩から、槍ヶ岳頂上までは約30分。岩場を鎖や梯子を頼りに登って行くと、頂上に出る。雨が降ってきた。ガスが上へ、下へと動く。頂上からの展望は言うまでもない。しかし、天候不良で残念だ。先に進むと、祠と槍が設置されていた。頂上からの下りは、雨で岩が濡れたせいでビビル部員もいた。鎖をうまくからませながら、慎重に下った。殺生ヒュッテに設営したテントに戻った後は、夕食の鳥釜飯をパクついてすぐに熟睡してしまった。 目指す槍ヶ岳はまだ遠くに見える。 山肌に残雪を多く装う槍ヶ岳の姿は、まさに聖地を思わせる。 大天井岳も、こうしてみると壮大で立派な山だ。 西岳から、東鎌尾根越しに見る槍ヶ岳。まだ一登りも二登りもありそうだ。 いつかはしてみたい、大キレット超えの槍・穂縦走。 ここまで来ると、槍の穂先も目前に見えます。槍の肩から穂先までは、短いけど岩場の連続。整備されているとはいえ、高度感があって緊張するところです。 スポンサーサイト スポンサーサイト行程概要
期日
1976年7月26日(月)~1976年8月1日(日)
日程
6泊7日
行程
-
メンバー
ワンダーフォーゲル部員
地図
(国土地理院)
交通費用
約10,000円
宿泊費用
コース
マップ
山行日誌
第3日:1976年7月28日(水)
天候
コース&タイム
食事
日誌
第3日:1976年7月29日(木)
天候
コース&タイム
食事
日誌
景観
関連サイト